圓通山 惠弘寺
開基住職 足立隆厳
足立隆厳
高野山真言宗 圓通山 惠弘寺
開基住職 足立隆厳
一九六三年福岡市生まれ。
日本臨床宗教師会認定臨床宗教師
札幌市保護司
札幌BONZEくらぶ 代表
国境なき僧侶団 メンバー
北海道有志僧侶の会 代表
臨床宗教師として
仏門に入り、修行を重ねる中で「臨床宗教師」の存在を知りました。臨床宗教師とは、ガンなどの病により終末期にある人や災害などで心に傷を負った人の悲しみや苦しみに寄り添いケアをする宗教者の事を指します。「お坊さんがお寺だけではなく、病院でも活動できることを知り、私もやらなければと思いました。」それはやはり祖父母への思いがある。臨終のときそばにいることができなかった事。同じように終末期を迎えてもなかなか家族と触れ合えない人を放っておくことはできなかった。
人の死に臨んで
足立の胸には臨床宗教師として初めて出会った、末期ガン患者の女性の言葉が今も刻まれている。新潟の病院に傾聴に伺った時のことだ。『あなたの歳の時には自分が死ぬことなんて考えたこともなかった。お坊さん、私みたいに死ぬ時に家族が看取ってくれないような死に方はしないでね。』とおっしゃいました。
この方は自分の命がもう少しであることを自覚し、死への覚悟ができていたんですね。大事な人生の終焉の場所に立ち会うこと。そこで話を聞く相手が自分であることの重要さ。それを初めて実感した。
今を生きる人の支え
「札幌には保護司が足りていない」という現状を聞き、保護司としても活動しています。
保護司とは、犯罪を犯してしまい刑務所へ収容されている人や仮釈放・保護観察中の人が再び再犯に走らないように面談を行い、社会復帰を見守る行政から委託されたボランティアです。
「自らが犯した罪への後悔や反省に悩む人やそのご家族と多くの方が心のケアを必要としています。」
札幌市保護司として
「お坊さんと話したい」と多くの人が自分たち僧侶を必要としている現実がそこにはありました。
「お坊さんというとやはりお葬式や法要など死後に関わることが多い印象でした。しかし、今を懸命に生きている人もまた仏の救いを必要としていた。これもまた同様に私たち僧侶の役目だと感じました。」
足立が僧侶になった端緒
葬儀業界へ
福岡のごく一般的な家庭に育った私は、社会人として実家の家業を手伝ったり、何度かの転職を経て自ら事業を経営するなど仏教からは縁遠い人生を歩んでいました。
しかし、ある日経営していた会社を閉じることを決意。
「当時はお金を稼ぐことに執着する日々が続き、毎日が暗い気持ちでいっぱいでした」
ある日、私は不可思議な体験をしました。
祖父母の供養を目指し仏道へ
「夜中に亡くなっていた祖父母の姿を見たのです。」
夢か現かわかりませんが、確かに祖父母が微笑みかけてくれていました。
今思えば、『まだまだこれからだよ』と諭されているような気がしました。
その後、活力を取り戻した私は札幌の葬儀社で働き始めました。
しかし、そこで見たのは人の思いに寄り添うとは程遠い、ビジネスライクな葬儀の現場のように感じました。
自らが僧侶へ
そんな時、私は1人の僧侶と出会いました。「葬儀社で働いていた時、いろんな宗派の葬儀を見てきましたが、その方が最も美しい所作でスムーズな葬儀をされていたのです。」足立はその僧侶に祖父母の供養を自ら行いたい」と仏門に入りたい旨を相談しました。「サラリーマンとの違いや、一般家庭で育った私が僧侶になることの難しさを丁寧に説いてくださったのちに、『本当に覚悟があるのなら、私のお寺で役僧として修行なさい』とおっしゃって頂きました。
こうして私は祖父母への思いを胸に48歳にして仏教の道を歩み始めることになりました。
仏教の道
活力を取り戻した私は札幌の葬儀社で働き始めます。
しかし、そこで見たのは人の思いに寄り添うとは程遠い、ビジネスライクな葬儀の現場のように感じました。
「思いのない人たちに拝んでほしくなかった」と感じた私の心によぎったのは、自らが僧侶になり、人生を助けてくれた祖父母を自らの手できちんと供養してあげたいという純粋な気持ちでした。